2022年12月29日木曜日

【女の子の教育環境改善】2022年11月マンスリーレポート「ミシンの受け渡し、地域での啓発活動 等」

 

ブタンバラ女性の開発団体「BUWODEV」と協力しながら、性と生殖の健康に関するセッションを実施中のプロジェクトチーム

<活動状況>

1.   ラジオトークショーの実施(ムベンデ県)

2.   女子の教育推進、布ナプキン利用者の増加を目的としたラジオスポットメッセージ(コマーシャル)の放送

3.   月経時の衛生管理のブックレット、及び教員トレーニングマニュアルの印刷

4.   対象校10校でのミシンの受け渡し(ムベンデ県)

5.   学校でのナプキン作成活動(ブタンバラ県)

6.   地域での啓発活動(ブタンバラ県)

7.   Happy-Padプロモーションセンター(ワキソ県)

8.   Happy-Padプロモーションセンターでのマスク生産(ワキソ県)

 

1.  ラジオトークショーの実施(ムベンデ県)

1118日に「Luna Fm」で、1 時間のラジオトークショーを実施し、生理用品を購入できない女子生徒が快適に学校に通えるようサポートするように地域の住民に呼びかけた。主な話題は適切な月経時の衛生管理、女子の教育、そして対象校 10 校に設置したミシンやナプキン作成のトレーニング、ナプキンの使用方法、手入れ方法などであった。ナプキン作成トレーニングはエボラ出血熱の感染拡大が落ち着いた後に実施することを住民に説明した。



 

2.   女子の教育推進、布ナプキン利用者の増加を目的としたラジオスポットメッセージ(コマーシャル)の放送

月経時の衛生管理、女子生徒の教育、生理用布ナプキンに関するラジオスポットメッセージを以下の通り放送した。

·        ムベンデ県:Luna FM 1 6 回 )

·        ワキソ県: Voice KiryagonjaTiger FM (1 日 10 回)

·        ブタンバラ県:Voice of Butend(111Voice of Kikambwe(110


 

3.   月経時の衛生管理のブックレット、及び教員トレーニングマニュアルの印刷

1128日にブタンバラ県では月経時の衛生管理のブックレット300部、及び教員トレーニングマニュアル20部を印刷した。学校再開予定の20232月に配布予定である。

同様にムベンデ県、ワキソ県でも月経時の衛生管理のブックレット400部、及び教員トレーニングマニュアル40部を印刷した。


 

4.     対象校10校でのミシンの受け渡し(ムベンデ県)

1110日~11日にムベンデ県の対象校10校で教員、テーラー、月経衛生管理クラブの立ち合いの元ミシンを受け渡した。月経衛生管理クラブの部員にはTシャツを配布し、翌年の新学期開始に合わせてナプキン作成トレーニングを行うことを約束した。


5.     学校でのナプキン作成活動(ブタンバラ県)

国内でのエボラ出血熱の感染拡大を受け、国が制定しているスケジュールよりも早い1125日に長期休暇が始まったため、事業の活動を予定通りに進めることができなかったが、Bule初等学校、Ntolomwe初等学校、Nkokoma初等学校、Lwamasaka初等学校から要請を受け、学校終業前にナプキン作成の座学を開始することができた。

 

6.   地域での啓発活動(ブタンバラ県)

1126日にンガンド準郡のBudinse Memorial 学校に、地域に様々な学校から124名(男子56名、女子68名)の子どもたちが集い、地域で活動を行っているブタンバラ女性の開発団体「BUWODEV」との協力の下、1時間の性と生殖に関する健康セッションを行った。124名のうち32名(男子8名、女子24名)は事業の対象校となっているLwamasaka初等学校、Butende初等学校、Butalunga初等学校の生徒であり、残りの92名は対象となっていない学校の生徒であった。

このイベントは、孤児や弱い立場にいる子どもたちの救済やカウンセリング、指導を通しての経験を共有する3日間の催しであり、思春期における体の変化や、互いを守る意味での責任、月経中の女子生徒に対する男子生徒のサポートの重要性などを主なメッセージとして出席者に伝えた。また、女子生徒に対しては適切に月経時の衛生管理に取り組むように呼びかけた。

対象となっていない学校の生徒は対象校の生徒よりも控えめであったが、少人数のグループに分け、BUWODEVの女性司会者がセッションを始めた頃にようやく話し始めた。セッション内では、「16歳になっても月経が来ていなければ問題があると教わりましたが、18歳で月経が来た人がいたとすれば、それは普通ではないのでしょうか。」という質問があり、これに対し司会の女性は月経が遅れている場合は近くの大人か医師に相談するように助言した。

1128日の集会には、50名の保護者(女性40名、男性10名)が参加し、生理中の女子、特に初潮を迎えた女子生徒への生理用品や感情的なサポートなど保護者が持つべき責任について認識を持つように促した。また、前日のセッションで子どもたちの発言が少なかったことから、子どもたちが自由に発言し易い環境を用意した。


 


7.   Happy-Padプロモーションセンター(ワキソ県)

11月は合計で28枚の布ナプキン、262個の包装用ポーチを生産した。エボラ出血熱の感染拡大受け、予定されていた長期休暇開始日よりも早くに学校を終業するよう政府が要請したため、学生を対象にしたトレーニングは実施しなかったが、地域住民へのトレーニングは9名を対象に実施した。また、11月はナプキンを3セット販売することに成功した。今後は宣伝を兼ねた店舗訪問や、女性が多く集まる地域の集会や美容院などの場所での交流を通し、販売拡大を図る。


 

8.     Happy-Padプロモーションセンターでのマスク生産(ワキソ県)

新型コロナウイルスに加えエボラ出血熱の感染が国内で拡大し、予防を目的にマスクの着用が推奨されていたため、プロモーションセンターで500枚のマスクを生産した。センターで生産したマスクは販売用ではなく無料配布用とし、 ワキソ県の子どもたちを対象に155枚のマスクを配布した。12月~1月は生産数を更に追加し、学校再開時にムベンデ県の対象校に配布予定である。

大統領は122日にコロナウイルス感染者の報告数が150件程度あることを発表し、今後も国が定めた標準作業手順 (Standard Operating Procedures)に従うように国民に呼びかけた。



 

<事業による効果的な影響およびもたらした変化>

·        ナンサナ市内のKiryagonjaKasalirweKirinnyabigoLwadda-KyondoNajjembaNasseなどの「Voice of Kiryagonja」ラジオ局周辺の地域に住む住民は、スポットメッセージを通して活動への理解が深まってきている。(ワキソ県)

·        対象校の生徒が対象となっていない学校の生徒よりも性と生殖の健康セッション内で良い反応を示していたことから、活動を通して月経衛生管理や性と生殖の健康などへの認識が向上していることが分かった。(ブタンバラ県)

·        同じ地域内で活動する他の団体と協働することで、対象となっていない学校に通っている子どもたちとの知識量の差を測ることができた。また、健康や思春期に関連する問題において情報を共有できるように、子どもと積極的に話し合い、活動への参加を促すように保護者に奨励した。(ブタンバラ県)

·        ラジオのリスナーは、ミシンを学校に設置したこと、また月経時の衛生管理やエボラ出血熱に関する貴重な情報をラジオを通して伝えていることに対しSORAKに感謝していた。(ムベンデ県)

·        ミシンの受け渡し日に参加していた生徒・教員は、ミシンの設置を歓迎しており、学校再開後に開始予定の布ナプキン作成トレーニングへの興味を示していた。(ムベンデ県)

·        プロモーションセンターで生産したナプキンの品質を地域住民が高く評価していることがナプキンの宣伝・販売を通して分かった。(ワキソ県)


直面した問題>

·        エボラ出血熱の感染拡大により教育省が学校に閉鎖要請を出し、学校側も早急に対応するためにスケジュールを変更したため、11月に3県の全ての対象校で実施予定であった学校施設修繕のモニタリングや生徒を対象にしたナプキン作成トレーニングを実施することができなかった。 (ムベンデ県)

·        旧バージョンの月経時の衛生管理ブックレットが(保健省からのリバイス要請により)回収して以降、生徒たちが利用できる読み物がなにもなかった。(ブタンバラ県)

·        エボラ出血熱の感染拡大を受け、1016日~1217日までロックダウンが発表された。これにより、予定よりも早い1125日に学校が閉鎖し、学習及び事業の活動に影響が出た。(ムベンデ県)



<提案>

·        学校施設修繕のモニタリング活動は2月に学校が再開し次第実施するべきである。

·        対象校以外の生徒が活動に参加すれば、より多くの住民への啓発につながる。

·        他のコミュニティのグループが活動に参加すれば、事業による効果をより大きなものにすることができる。




過去の報告書一覧はこちらです↓↓
「生理で学校に行けなくなる女子学生の教育環境改善事業」事業報告書一覧


※本プロジェクトはJICAの草の根協力支援型として実施しています。


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2022年12月11日日曜日

モザンビークのお話 (Vol.7) 横田 美保


こんにちは。前回に久しぶりにモザンビークのお話を更新し、モザンビーク内戦時の記憶、私の友人のインタビュー内容をアップしましたが、その続きです。是非Vol.6も併せてお読みいただけると嬉しいです。



<戦争に対する想い、気持ち>

Nさんによると戦争は、痛み、「悪」、存在してはいけないもので、国の発展を止めるもの、後退させるもの、破壊するものです。子ども時代に多くの人命が奪われるのを、人が傷つけられるのを目にしたことで、内戦の経験は決して忘れることができないものとなり、トラウマを残しました。Nさんの家族や親戚には戦争に関わった人がいました。幸い戦争で命を落とした人はいなかったそうですが、同じ国の中で敵と味方に分かれて戦うことで、大きな心の傷を残しました。

戦争の犠牲者は主に一般市民で、自らを守る武器もなく、死んでいきました。市民が戦争を始めたのではありません。内戦は政治的な原因で始まり、権力、資源、お金などを巡って殺し合うことは、愚かです。

 

<平和とは?>

平和とは、平穏である状態です。子どもたちが学校に行って学んで、大人は仕事ができて、畑を耕して、皆がお腹いっぱい食べて、衣食住の心配がなく、国が安定的に発展できる状態だと思います。それと対にあるのが、何かに怯えなければならない状態、破壊されること、襲われること、傷つけられることを恐れる状態です。

 

<今のモザンビークは平和?>

旅行、移動、心配なく眠ること、安心して家族と過ごすこと、そして良いリーダーシップ(国を落ち着かせ、人々のことを考え、行動できる人)が現在のモザンビークでは、脅かされています。特に資源、お金が絡むと戦争が起こります。特に私の住んでいたカーボデルガド州では、今まさに資源を巡り、支配権争い、お金の奪い合いが起きています。

国全体で一部の人だけが利益を得る仕組みが出来ており、その人たちが決定権を持って、自らの利益しか考えない政策をしていると思います。本当に困っている人に資金が届いていない状態です。状況はここ数年悪化の一途をたどっています。

 

<日本は平和だと思いますか?>

生活の水準が高く、とても平和で、争いのようなものを聞いたことがないです。強盗、殺人はあるとしても数が少ないことや路上で寝ても問題ないことからも安全な国だと思います。そいう意味で平和だと思います。そして、日本人は道徳心があり、他者を尊重する国民だと思います。しかし、外国人は仕事がないと、住むことはできないですし、外国人が路上で生活しているのは見たことないので、住むキャパシティがなければ居られない国だと思います。日本は皆が働く国、遊ぶ時間などないことが印象的で、アフリカ人はこのような感情では、ストレスで死んでしまうのではないかと思います。心の平穏は必ずしも日本人の中にないのかもしれません。


<モザンビークの将来のために望むこと>

1.     過去を繰り返さないで、発展すること

2.     健康面の改善、医療レベルの向上:病気で若くして(幼児)亡くなることを減らすこと

3.     教育のレベルの向上:まだ青空教室があるので、施設の建設・改善、学用品の充実、先生の育成

4.     若者に仕事を作ること。仕事がなく、失業者が多い

5.     犯罪(強盗、殺人など)を減らすこと。お金のため、生活のために犯罪に手を染める人が多いので、生活を安定されること

6.     基礎インフラ(水道、電気、道路)を整えること

 

ここ5年、10年間で生活が良くなっているとは感じられないです。むしろ武装勢力の影響で州内の生活状況は悪化しています。特にテロによる治安の問題の悪化が顕著です。そのために残念ながらペンバを去った友人が沢山います。このような苦しい状況でも、母は仕事をしながら勉強しています。私たちが将来のためにやるべきことを続けるだけです。

 



今回、辛い内戦時の経験について語ってくださったNさんには大変感謝しています。またいつかペンバでNさんと再会できる日が来るのを願っています。

そして、モザンビークの北部に一日も早く平和が訪れますように。



Nさんが共に活動されている日本の団体、「モザンビークのいのちをつなぐ会」のウェブサイトはこちらです。

是非、スラムの学び舎・寺子屋での教育活動など様々なプロジェクトを、チェックしてみてください。


最後までお読み頂きありがとうございました。


 


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2022年12月5日月曜日

モザンビークのお話 (Vol.6) 横田 美保

こんにちは。すっかりご無沙汰してしまいましたが、お元気でお過ごしでしょうか。久しぶりにモザンビークのお話をアップしたいと思います。

さて、これまでモザンビークの内戦と平和構築のお話をしてきましたが、実際にモザンビークの内戦を経験した一般市民はどんな記憶、戦争に対する想いを持っているのか、友人にインタビューしました。その内容をお届けします。

モザンビークはポルトガルからの独立後、人々の生活は少しずつ良くなっていましたが、1975年に内戦が起こりました。モザンビークの面積は日本の約2倍、そして日本のように南北に細長い国です。そのため内戦が起こっていたとはいえ、戦場となった地域と、戦渦が届かなかった地域があります。

首都のマプトや、モザンビーク中部の州に住んでいた知人に戦争の記憶について聞いてみましたが、普通の生活が送れていたので、戦地にいた人、戦争に参加した人に話を聞いたほうが良いとアドバイスされ、北部地域出身のNさんにお話を聞きました。

Nさん(モザンビーク人・男性)の出身地は、私が6年間住んでいたモザンビーク最北部の州、カーボデルガド(Cabo Delgado)州のムエダという場所で、Nさんは1987年に生まれました。内戦は、1975年から1992年まで続いたので、Nさんの記憶に残っているのは、内戦終結前の数年間ということになります。 

Nさんは幼かったですが、1990年頃の内戦の様子を鮮明に覚えているそうです。

Nさんの戦争の記憶>

当時の内戦は、フレリモと反政府軍のレナモの戦闘が行われていたのですが、レナモは数が少なく、劣勢なためゲリラ的な攻撃を行っており、昼間は森、茂みなどに潜んでいて、深夜に村を襲いに来ました。そのため、夜中に、銃声、爆音が響きます。銃声が聞こえ始まると、家族が幼かったNさんや兄弟たちを抱えて畑、茂みに走って隠れます。そのため、夜中のパッパッパッパッという銃声や爆音がトラウマになっているそうです。

戦渦が酷くなり、住んでいた村はレナモ軍に征服され、2,000人ほどの人々が殺害されたそうです。そして家々からは食糧等の生活物資が強奪されました。幸いなことにNさんの家族は生き延びましたが、その村から逃れ、1991年に北部のムエダから同州南部の親戚が住んでいたミエジに移住しました。




<戦時の生活>

身の危険を感じると身を潜めて畑に隠れながら住んでいたため、普通の生活ができなかったそうです。多くの男性は戦場に行っていたため、女性と子どもだけが村に残され、衣食住全てが大変でした。人として生きるのに最低限、ギリギリの生活だったそうです。

ガゼラ、インパラ、トリ、象、ライオン、カバ、サル、ネコ科の動物、大きな蛇、野生の豚、ウサギ等、人々は生存のためにありとあらゆる野生動物を食し、生活のために土地を切り拓いたため、野生動物が激減しました。

キャッサバという芋、米、トウモロコシなどの主食を主に生産して自給していました。満足な資材も肥料もない畑の生産性は悪く、同じものばかり食べていたために栄養失調になる人、病気で亡くなる人が絶えなかったそうです。

この時期には医者がおらず、病院もありませんでした。コランデイロという土着の薬草等の知識のある人が処方してくれる伝統薬、薬草を飲むだけでした。年長者は身体によい薬草のことを良く知っていたそうです。加えて、水不足で、脱水症状で亡くなった人も多かったようです。

内戦時代、戦地となった場所には学校、学ぶ機会が無く、就学年齢であった人の多くは残念ながら公教育を受けずに育ちました。




<戦争の終結・戦後の記憶>

1992年に戦争が終結し、レナモ軍の関係者は捕えられて、処刑されました。村において村人(一般人)が処刑と称してガソリンでレナモの関係者を焼いた様子がNさんの記憶に強く残っているそうです。(戦後の混乱の中で起こったことで、法制度の整備後はこのような非人道的な行為は認められていません。)

Nさん家族はその年にミエジから、州都ペンバ(当時はポルトアメリア)に移り住み、ナティティという地域で暮らし始めました。ペンバは攻めるのが難しいので、戦場にはならなかったそうです。ペンバ港を中心として市場、お店、郵便局、役場等が機能していました。今ペンバは、人口数十万人の地方都市ですが、Nさんが住み始めた当時、ナティティは未開の地でした。近郊には豚、サル、蛇、ライオンなどの野生動物がいました。

カーボデルガド州と国境を接しているタンザニアには、戦時中(独立戦争中、内戦中)、モザンビークからタンザニアに多くの人が逃がれました。Nさんの家族は全員が一度に戦争で死なないように、生き延びるためにモザンビークとタンザニアに分かれて生活していました。そのため、Nさんのお母さんはタンザニアで生まれました。叔父さんはタンザニアで音楽家になり、その叔父さんがNさん一家の戦後の暮らしを支えてくれました。

次第に生活は落ち着き、Nさんが学校に行き始めたのは、1993年、6歳の時でした。戦争が終わって、学校は比較的すぐに再開されましたが、机や椅子が無いのは勿論、教室もなく、青空教室でした。その後、学校が竹で建設されました。

ここまでお読み頂きありがとうございます。次回は、インタビューの続きをお伝えします。

Vol.7に続く)


 

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