2021年1月9日土曜日

モザンビークのお話 (Vol.3) 横田 美保

 

<モザンビークの平和構築活動>

厳しい寒さの中、冬のひだまりがことのほか暖かく感じる歳末の候、いかがお過ごしでしょうか。

さて、Vol.1でモザンビークの内戦が終わった後、199212月からの2年間、日本から自衛官が派遣され、モザンビークの治安の維持に貢献したとお話しましたが、別の角度からも日本が同国の平和構築に携わりました。

1975年から1992年まで続いた内戦中、米ソを始めとする様々な国々から流入した武器が人々の居住地域の周辺、そして民間の手に残されてしまいました。

除隊兵士や元ゲリラ部隊の兵士たちは個人的に武器を所有していたため、内戦終了後も大量の武器が個人の手に残ることとなりました。内戦中、モザンビーク国内にはAK47(ロシアが開発した軍用小銃)だけでも600万丁存在していたと言われています(正確な数は把握できていません)。大半は闇市場で流通し、モザンビークではAK47の単価が約14ドルと非常に低額であったため、隣国南アフリカ共和国の国内市場へ大量の小型武器が流入することとなりました。(南アフリカ共和国では1丁が400ドル~500ドルであったと言われています。)*

       シニャンガニーネ村を訪問した際に回収した銃。

錆びて、使えない銃ですがずっしりと重みを感じました。

 

モザンビーク政府は、内戦終結後、国内の治安の維持と、周辺国への小型武器の流出をくい止めるために幾つかの措置をとりました。その代表的な活動が、レイチェル作戦と「銃を鍬に」プログラムです。

◆レイチェル作戦(Operation Rachel

19957月から第1~第4のフェーズで展開された武器回収プロジェクトで、同年9月に押収された武器が焼却され、その模様はテレビで報道されたため、国際社会の関心も高かったと言われています。全4回の作戦に関して、全て南ア政府が資金投入しました。(出典:Vines, A.1998p.46.

◆「銃を鍬に」プログラム


武器を市民の手で回収し、生活物資と交換することで武装解除・平和構築を進める取り組みを現地NGOキリスト教評議会(CCM: Christian Council of Mozambique)が開始しました。この平和構築活動は、聖書のイザヤ書『彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない』という聖句からモザンビーク聖公会のディニス・セグラーネ(Denis S. Sengulane)司教が発案、ポルトガル語ではTAETransformação de Armas em Enxadas)プロジェクト、日本語では「銃を鍬(くわ)に」プロジェクトと呼ばれています。

CCMの年次会合の様子

武器との交換物資としては自転車や足踏みミシン、農具、建築資材(セメントやトタン屋根)等が活用されてきました。武器との交換を支援するための支援物資を日本から送った市民団体が幾つかありました。その中にNPO法人えひめグローバルネットワークがありました。愛媛県松山市で問題となっていた大量の放置自転車の一部を市から無償で譲り受け、整備してモザンビークに送り、現地で交換物資として活用してもらう平和のためのリユースの活動が始まりました。2000年に第1回目100台の自転車輸送を実現し、以降、計7回、660台の自転車をミシンや文房具などの支援物資と共に輸送しました。松山市から寄贈された放置自転車は、マレンガーネ地区の小学生の通学の足としても活用されました。

日本から贈られた自転車に乗るボンドイア村の小学生たち


 モザンビークにおいて使用できる状態の武器は、闇市場で販売すると数百ドルになることもあり(販売先や銃器によって金額はまちまち)、貧しい市民にとっては貴重な収入になりえます。また、内戦が終わったとはいえ、戦争を経験した人々にとって武器を手放すということはリスクにもなりえます。そのため、CCMは単に武器を回収するのみならず、平和教育=精神の武装解除、平和に基づいた生活の安定の啓発を並行して実施することを重視してきました。例えば、平和教育のワークショップを開催し、武器回収に協力してくれた村・コミュニティには井戸の建設や小学校の建設支援などを実施しました。

              CCMが北部州で回収した銃

       実際に戦争で使われたかと思うと置かれているだけでも恐ろしいです。


1995年から2012年までにCCMが警察、軍隊と協力して回収した武器(銃器だけでなく、地雷、手りゅう弾、ロケット弾など様々な武器を含む)は、計200万丁/個以上にのぼりました。回収された武器は、2度と使用できないよう爆破処理されました。国内にAK47だけでも600万丁存在していたことを鑑みると、レイチェル作戦と「銃を鍬に」プログラムで回収・破壊できた武器は全体の数割にとどまります。しかし、平和の構築のために市民が継続的に取り組んできたこと、その活動こそが重要なのではないかと思います。

2012104日、モザンビークの内戦が終結して20周年の平和記念日の式典に出席した際にスピーチより

‟「平和」な状態は、努力なしに維持できるものではない。絶え間ない努力があってはじめて維持できるもので、モザンビークの平和のためにはより一層の国民の尽力が必要である

 

*出典:中澤香世「第9条 モザンビーク」

https://home.hiroshima-u.ac.jp/heiwa/Pub/45/45-nakazawa.pdf

 ここまでお読み頂きありがとうございます。

次回も引き続きモザンビークの平和構築活動についてお話しますのでお楽しみに。

昨年はGBNの活動にご支援いただき誠にありがとうございました。本年もどうぞ宜しくお願いいたします。


Vol.4に続く)



 


2020年12月26日土曜日

【経済的自立支援】マイクロクレジットを通した女性や若者の経済的自立支援~

~マイクロクレジット(貧困層向けの無担保で小額の融資)を通したウガンダ・ムベンデ県の

女性や若者の経済的自立支援~

-背景と課題-

ウガンダのムベンデ県の農村部では、女性や若者の80%以上が自営業者で農業や小規模で低収入な商売を行っています。彼らの大半は、銀行や信用機関からの融資を受けるために必要な担保がないため、収入創出のためのビジネスを始めるのに必要な融資を受けることができません。そのため、ムベンデ県やその他の地域の女性と若者は最低水準の生活をしています。このような貧困状態に置かれた少女や女性は、結婚を強いられたり、性産業のような非公式な仕事に従事させられたりすることがあります。彼女達には、食料、医療、衣類、学用品などの最低限の生活のための支出の余裕さえありません。

事業対象地域では、人口の60%が貧困ライン(1日あたりの稼ぎが2ドル)を下回り、そのうち約40%の世帯は女性、未亡人、子供、祖父母が家長であるため、より脆弱性が高い状況に置かれています。このような世帯は収入を創出できるような自立支援が必要であり、SORAKのような非営利の団体が提供する低金利の小規模融資制度は、最良の支援方法だと考えます。今回実施するマイクロクレジットを通して、女性や若者に収益性のある経済活動に投資する機会を提供できます。若者や女性5名ずつのグループを作り、グループごとに50,000200,000 UGX(約1,5005,500円)の前渡金を提供し、その資金は市場での販売、チャパティ(平焼きのパン)の製造、子豚の購入・飼育など収入創出活動を開始するのに使用します。SORAKは、資金が適切に活用できるように起業家育成トレーニングを行い、各グループは6ヶ月以内にお金を返済することを必須とします。

一方でSORAKは、またCOVID -19により影響を受けた若者や女性の経済的支援のために、パンおよび蚊よけのジェルの製造所、そしてトレーニングセンターを設立しました。現時点では、生産を開始するための最終段階に入っていますが、新規立ち上げに必要な原材料とマーケティングの資金をGlobal Bridge Network(GBN)からの資金で賄います。以前、SORAKが生産したレモングラスのエッセンシャルオイルを活用した蚊よけジェルの市場調査を実施した際に、今後購入する可能性のある顧客にサンプルを提供したところ、非常に良いフィードバックを得ました。この経験が、収入創出活動や今回の女性や若者のエンパワーメントのための資金提供(マイクロクレジット事業)への動機になりました。パンや蚊よけジェルの生産、女性や若者へのトレーニングセンターを通して、彼らの生活向上のためのスキル習得につながるように支援していきます。


SORAKの製造所

パンこね機

ジェルボイラー

融資の活用を通した起業のトレーニング

参加者(女性や若者グループ)


-プロジェクト目標:

女性・若者たちのために持続可能な収入創出に貢献すること。

-プロジェクト概要:

女性・若者のグループに収入創出の技術提供(パンや蚊よけジェルの生産)と起業家育成トレーニングを行い、マイクロクレジットを原資にした起業を支援する。

-対象地域:

SORAKの事務所がありパン・蚊よけジェル製造を実施しているムベンデ県・キバリガ準群にて、若者と女性を対象に実施する。プロジェクトのサポートが終了する頃には、生産と需要が増加し、より広範な地域に活動を拡大することを目指している。

-対象者:

若者150名(女子80名、男子70名)と女性100名を対象にマイクロクレジットの提供およびパンと蚊よけジェルの作成トレーニングを実施し、生産に従事させる。各対象者が本事業に関わる期間は1年以上とする。トレーニングを受けた対象者はパンや蚊よけジェルの生産者として雇用し、そのスキルを今後の生活(グループ、あるいは個々の起業)に活かせるようにする。本プロジェクトの対象者は、生活をより良くするために生産性そして収益性のある起業への投資としてクレジットの活用を目指す、前向きで積極的な女性・若者を対象とする。すでにパン・蚊よけジェル生産やトレーニングに関心を示している者が対象者となる。

-活動内容:

パンと蚊よけジェル製造のビジネスを開始するための準備として、SORAKはすでに製造所、機械、水回りの設備、パンの鋳型などに自身で出資しており、今後はマーケティング、人員確保、ビジネス開始の材料調達を実施する。

1-   パンと蚊よけジェル生産にかかる材料調達

2-   女性・若者を選抜し、パンと蚊よけジェル作成トレーニングの実施と生産

3-   女性・若者グループの動員と能力強化、小額の融資と有効使用への指導

4-   ブランド化したパンと蚊よけジェルの包装、市場での販売

-マイクロクレジット事業と資金の使い方:

SORAKGBNから2年以内に返済するローンとして資金提供を受け、パンと蚊よけジェル生産の基盤づくりとトレーニングを実施する資金に充てる。残りの資金はクレジット提供に充て、女性・若者を慎重に選抜して融資する。彼等が確実にクレジットを有効かつ効果的に使えるように訓練する。

クレジットは以下2つの使い道がある。

1     5名のグループを形成し、開業資金として1グループあたり50ドルのクレジットを受け取る。全員が一度にクレジットを受け取るわけではなく、2年以上かけて提供する。各グループに渡すクレジットの予算が1000ドルある場合、50ドルx20グループに提供する。そしてこのクレジットはローンの目的や返済のリスクにより2-5%の利子をつけて月次で返済する。この利益分については運営費およびGBNへの返済に充てる。

2     それ以外の資金はSORAKのパンや蚊よけジェル生産ためにSORAK備えておく。例えば製造所の整備費など、開業時に急な元手が必要となることも想定している。工具や生産道具、建物の修繕、排水ポンプや水回りの衛生管理費など補完にもなる。

最後に、SORAKは資金を正しく使用し、収益については生産活動の継続とGBNへの返済に充てます。

以上

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GBNより:本事業はSORAKに対してローンという形にしていますが、返済された資金は現地の支援に充てる予定です。

報告書一覧はこちらです↓↓

※本プロジェクトは皆様の寄付などを含む自己資金を活用しています。



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2020年11月4日水曜日

モザンビークのお話 (Vol.2) 横田 美保

こんにちは。今回はモザンビークと日本の意外な歴史的なつながりについてお話したいと思います。

<日本とモザンビークの繋がりのはじまり>

日本とモザンビークの繋がりは、なんと16世紀に始まりました。イエズス会の宣教師が織田信長と謁見した際に従者としてつれていた黒人を「信長が、召し抱えたいと所望したために献上した」と史実に残っており、その従者がモザンビーク出身だったのではないかと言われています。信長はその黒人男性を「弥助」と名付け、後に武士の身分を与えて家臣にし、数々の戦に弥助と参加したと伝えられています。

狩野内膳の 『南蛮人渡来図』には、日本に到来した宣教師などが黒人奴隷の召使いを従えている様子が描かれています。日本で弥助に与えられた役割は宣教師らの護衛であったと推測されており、宣教の旅にお供して九州に点在したキリシタン大名の領地を訪問していたようです。


 
   『南蛮人渡来図』


信長は、弥助の容貌、特に肌の墨のような黒さにとても興味を示したと伝わっています。肌の黒さは人為的につけられたものではとの疑念を持ち、肌をこすったり引っ張ったりして見分したそうです。身体を洗うことで色が落ちるのではないかと水浴びを命じましたが、洗っても色を失うどころか、ますます黒光りして大層驚いたそうです。また、当時の日本人男性の平均身長はおそらく150cm台でしたが、弥助は180cm以上あったと伝えられています。

1582年の本能寺の変で主君信長が命を落とし、弥助は追放され、これを機に弥助の記録は途絶え、どのような生涯を送ったかは定かではありません。

弥助がモザンビーク出身ではないかとみる歴史学者がいるのは、スワヒリ語で英雄を称える歴史的な叙事詩を弥助が披露したという記録から、スワヒリ語が今も使われている現在のモザンビーク北部の出身と推測されたためのようです。

日本の象徴である「侍」の中に異国人がいたという事実は、日本人にのみならず、海外の人々にも大きなインパクトを与えました。弥助の存在は次第に注目を集めるようになり、彼のストーリーはロックリー・トーマス氏の「信長と弥助」という本になったり、コートジボワール系のフランス人作家セルジュ・ビレ氏が本を出版したり、「Yasuke」としてハリウッド映画化されることが発表されたりしています。彼のミステリアスで数奇な人生が人々を惹きつけています。

ここまでお読み頂きありがとうございます。

次回は日本とモザンビークの平和構築活動の関係についてお話しますのでお楽しみに

Vol.3に続く)

 


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2020年10月8日木曜日

モザンビークのお話 (Vol.1) 横田 美保 

 




こんにちは。Global Bridge NetworkGBN)の横田美保です。今年はコロナの影響でイベントの開催・参加ができず、皆さんとお会いする機会が持てないので、私を含めGBNスタッフはとても残念に思っています。

<ウガンダ以外のアフリカの国を知っていますか?>

さて、GBNはこれまでウガンダにおいて活動を行ってきましたが、アフリカ大陸には、現在54の国(AU加盟国数)があります。皆さんは、モザンビークという国を知っていますか?もしかしたら、ニュースなどで名前を何となく聞いたことがある人もいるかもしれません。アフリカにはたくさんの国がありますが、日本では個々の国については、知られていないのが現状です。そこで、私が2009年から20185月までの約9年間駐在していたモザンビークの魅力について、お話させてください。

 2010年モアンバ郡ボンドイア村にて

<モザンビークってどんな国?>

モザンビークは、マダガスカルの対岸に位置し、ウガンダと同じ東アフリカ(地図では水色)にカテゴリーされています。国土は日本の約2倍、南北に長い国なので、日本のように北と南では気候、文化、方言などが大きく異なります。人口は約2,949万人(2018年:世銀)です。インド洋に面した海岸線は2,000㎞もあり、サンゴ礁、手つかずの美しいビーチが残る自然の宝庫です。季節は涼しい乾季と蒸し暑い雨季(12月~3月頃)の2つしかありません。

首都のマプトに住んでいたときには、乾季(1年の中で寒い時期)は長袖にジャケットが必要なくらい寒くなりますが(暖房はありません)、北部カーボデルガド州のペンバに住んでいたときには、ほぼ1年中半袖とサンダルで過ごせるくらいの気温で(北部はより赤道に近いので)1年のうち半分くらいは、日本の最も暑い8月と同じような非常に蒸し暑い気候でした。それなのにインフラが脆弱で頻繁に停電するので、扇風機もクーラーも止まってしまうこともしばしばで、蒸し風呂のような事務所で業務にあたることも多かったです。

2011年マカネタビーチにて

 <歴史>

1498にポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマがモザンビークに到達してから、ポルトガル人の入植がはじまり、300年以上にわたりポルトガルの植民地支配下にありました。そのため、公用語はポルトガル語です。

第二次世界大戦後も植民地支配を継続していたポルトガルに対抗するため、1962年にモザンビーク解放戦線(現政権与党・FRELIMOの母体)が結成され、1975625日に独立を果たしました。しかし、その後米ソ冷戦下の代理戦争である内戦が約17年間にわたって起こり、国土は再び戦渦に見舞われました。

2009年モアンバ郡シニャンガニーネ村にて回収された武器と地面に突き刺さった不発弾

1992104ローマにおいてモザンビーク包括和平協定が調印されました。同年12月には国連安保理決議により国連モザンビーク活動(ONUMOZ)が設立され、19951月まで約2年間の和平プロセスが実施されました。日本からはONUMOZに対し選挙監視要員、司令部要員、及び輸送調整部隊としてアフリカで初めて自衛官が派遣されました。

内戦が終結した後は、比較的安定した政情のもと、戦後の復興と、経済・社会の開発が進展してきました。しかし、同国には、内戦中に冷戦をバックアップしていた米ソを始めとする国々から大量の武器が流入したため、その武器(銃・ミサイル・地雷など)が民間に残されてしまいました。この武器を市民の手で回収し、生活物資と交換することで武装解除・平和構築を進める取り組みが行われました。この取り組みについては、次回お話します。

内戦を戦った政府与党フレリモと、野党レナモの間には政治的な緊張関係が存在し続け、中部・北部州においては、しばしば武力衝突が起こってきました。2017年に両政党間で和平交渉を進めていくための合意がなされ、この合意が今後も継続していくかが注目されています。

ここまでお読み頂きありがとうございます。



信長はその黒人男性を「弥助」と名付け、武士の身分を与えて家臣にしたと伝えられています。弥助は訪日した最初のアフリカ人とされています。狩野内膳の 『南蛮人渡来図』には、日本に到来した宣教師などが黒人奴隷の召使いを従えている様子が描かれています。



日本とモザンビークの繋がりは、なんと16世紀に始まりました。

次回は日本とモザンビークの意外な関係についてお話しますのでお楽しみに!

(Vol.2に続く)


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