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2022年12月11日日曜日

モザンビークのお話 (Vol.7) 横田 美保


こんにちは。前回に久しぶりにモザンビークのお話を更新し、モザンビーク内戦時の記憶、私の友人のインタビュー内容をアップしましたが、その続きです。是非Vol.6も併せてお読みいただけると嬉しいです。



<戦争に対する想い、気持ち>

Nさんによると戦争は、痛み、「悪」、存在してはいけないもので、国の発展を止めるもの、後退させるもの、破壊するものです。子ども時代に多くの人命が奪われるのを、人が傷つけられるのを目にしたことで、内戦の経験は決して忘れることができないものとなり、トラウマを残しました。Nさんの家族や親戚には戦争に関わった人がいました。幸い戦争で命を落とした人はいなかったそうですが、同じ国の中で敵と味方に分かれて戦うことで、大きな心の傷を残しました。

戦争の犠牲者は主に一般市民で、自らを守る武器もなく、死んでいきました。市民が戦争を始めたのではありません。内戦は政治的な原因で始まり、権力、資源、お金などを巡って殺し合うことは、愚かです。

 

<平和とは?>

平和とは、平穏である状態です。子どもたちが学校に行って学んで、大人は仕事ができて、畑を耕して、皆がお腹いっぱい食べて、衣食住の心配がなく、国が安定的に発展できる状態だと思います。それと対にあるのが、何かに怯えなければならない状態、破壊されること、襲われること、傷つけられることを恐れる状態です。

 

<今のモザンビークは平和?>

旅行、移動、心配なく眠ること、安心して家族と過ごすこと、そして良いリーダーシップ(国を落ち着かせ、人々のことを考え、行動できる人)が現在のモザンビークでは、脅かされています。特に資源、お金が絡むと戦争が起こります。特に私の住んでいたカーボデルガド州では、今まさに資源を巡り、支配権争い、お金の奪い合いが起きています。

国全体で一部の人だけが利益を得る仕組みが出来ており、その人たちが決定権を持って、自らの利益しか考えない政策をしていると思います。本当に困っている人に資金が届いていない状態です。状況はここ数年悪化の一途をたどっています。

 

<日本は平和だと思いますか?>

生活の水準が高く、とても平和で、争いのようなものを聞いたことがないです。強盗、殺人はあるとしても数が少ないことや路上で寝ても問題ないことからも安全な国だと思います。そいう意味で平和だと思います。そして、日本人は道徳心があり、他者を尊重する国民だと思います。しかし、外国人は仕事がないと、住むことはできないですし、外国人が路上で生活しているのは見たことないので、住むキャパシティがなければ居られない国だと思います。日本は皆が働く国、遊ぶ時間などないことが印象的で、アフリカ人はこのような感情では、ストレスで死んでしまうのではないかと思います。心の平穏は必ずしも日本人の中にないのかもしれません。


<モザンビークの将来のために望むこと>

1.     過去を繰り返さないで、発展すること

2.     健康面の改善、医療レベルの向上:病気で若くして(幼児)亡くなることを減らすこと

3.     教育のレベルの向上:まだ青空教室があるので、施設の建設・改善、学用品の充実、先生の育成

4.     若者に仕事を作ること。仕事がなく、失業者が多い

5.     犯罪(強盗、殺人など)を減らすこと。お金のため、生活のために犯罪に手を染める人が多いので、生活を安定されること

6.     基礎インフラ(水道、電気、道路)を整えること

 

ここ5年、10年間で生活が良くなっているとは感じられないです。むしろ武装勢力の影響で州内の生活状況は悪化しています。特にテロによる治安の問題の悪化が顕著です。そのために残念ながらペンバを去った友人が沢山います。このような苦しい状況でも、母は仕事をしながら勉強しています。私たちが将来のためにやるべきことを続けるだけです。

 



今回、辛い内戦時の経験について語ってくださったNさんには大変感謝しています。またいつかペンバでNさんと再会できる日が来るのを願っています。

そして、モザンビークの北部に一日も早く平和が訪れますように。



Nさんが共に活動されている日本の団体、「モザンビークのいのちをつなぐ会」のウェブサイトはこちらです。

是非、スラムの学び舎・寺子屋での教育活動など様々なプロジェクトを、チェックしてみてください。


最後までお読み頂きありがとうございました。


 


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2022年12月5日月曜日

モザンビークのお話 (Vol.6) 横田 美保

こんにちは。すっかりご無沙汰してしまいましたが、お元気でお過ごしでしょうか。久しぶりにモザンビークのお話をアップしたいと思います。

さて、これまでモザンビークの内戦と平和構築のお話をしてきましたが、実際にモザンビークの内戦を経験した一般市民はどんな記憶、戦争に対する想いを持っているのか、友人にインタビューしました。その内容をお届けします。

モザンビークはポルトガルからの独立後、人々の生活は少しずつ良くなっていましたが、1975年に内戦が起こりました。モザンビークの面積は日本の約2倍、そして日本のように南北に細長い国です。そのため内戦が起こっていたとはいえ、戦場となった地域と、戦渦が届かなかった地域があります。

首都のマプトや、モザンビーク中部の州に住んでいた知人に戦争の記憶について聞いてみましたが、普通の生活が送れていたので、戦地にいた人、戦争に参加した人に話を聞いたほうが良いとアドバイスされ、北部地域出身のNさんにお話を聞きました。

Nさん(モザンビーク人・男性)の出身地は、私が6年間住んでいたモザンビーク最北部の州、カーボデルガド(Cabo Delgado)州のムエダという場所で、Nさんは1987年に生まれました。内戦は、1975年から1992年まで続いたので、Nさんの記憶に残っているのは、内戦終結前の数年間ということになります。 

Nさんは幼かったですが、1990年頃の内戦の様子を鮮明に覚えているそうです。

Nさんの戦争の記憶>

当時の内戦は、フレリモと反政府軍のレナモの戦闘が行われていたのですが、レナモは数が少なく、劣勢なためゲリラ的な攻撃を行っており、昼間は森、茂みなどに潜んでいて、深夜に村を襲いに来ました。そのため、夜中に、銃声、爆音が響きます。銃声が聞こえ始まると、家族が幼かったNさんや兄弟たちを抱えて畑、茂みに走って隠れます。そのため、夜中のパッパッパッパッという銃声や爆音がトラウマになっているそうです。

戦渦が酷くなり、住んでいた村はレナモ軍に征服され、2,000人ほどの人々が殺害されたそうです。そして家々からは食糧等の生活物資が強奪されました。幸いなことにNさんの家族は生き延びましたが、その村から逃れ、1991年に北部のムエダから同州南部の親戚が住んでいたミエジに移住しました。




<戦時の生活>

身の危険を感じると身を潜めて畑に隠れながら住んでいたため、普通の生活ができなかったそうです。多くの男性は戦場に行っていたため、女性と子どもだけが村に残され、衣食住全てが大変でした。人として生きるのに最低限、ギリギリの生活だったそうです。

ガゼラ、インパラ、トリ、象、ライオン、カバ、サル、ネコ科の動物、大きな蛇、野生の豚、ウサギ等、人々は生存のためにありとあらゆる野生動物を食し、生活のために土地を切り拓いたため、野生動物が激減しました。

キャッサバという芋、米、トウモロコシなどの主食を主に生産して自給していました。満足な資材も肥料もない畑の生産性は悪く、同じものばかり食べていたために栄養失調になる人、病気で亡くなる人が絶えなかったそうです。

この時期には医者がおらず、病院もありませんでした。コランデイロという土着の薬草等の知識のある人が処方してくれる伝統薬、薬草を飲むだけでした。年長者は身体によい薬草のことを良く知っていたそうです。加えて、水不足で、脱水症状で亡くなった人も多かったようです。

内戦時代、戦地となった場所には学校、学ぶ機会が無く、就学年齢であった人の多くは残念ながら公教育を受けずに育ちました。




<戦争の終結・戦後の記憶>

1992年に戦争が終結し、レナモ軍の関係者は捕えられて、処刑されました。村において村人(一般人)が処刑と称してガソリンでレナモの関係者を焼いた様子がNさんの記憶に強く残っているそうです。(戦後の混乱の中で起こったことで、法制度の整備後はこのような非人道的な行為は認められていません。)

Nさん家族はその年にミエジから、州都ペンバ(当時はポルトアメリア)に移り住み、ナティティという地域で暮らし始めました。ペンバは攻めるのが難しいので、戦場にはならなかったそうです。ペンバ港を中心として市場、お店、郵便局、役場等が機能していました。今ペンバは、人口数十万人の地方都市ですが、Nさんが住み始めた当時、ナティティは未開の地でした。近郊には豚、サル、蛇、ライオンなどの野生動物がいました。

カーボデルガド州と国境を接しているタンザニアには、戦時中(独立戦争中、内戦中)、モザンビークからタンザニアに多くの人が逃がれました。Nさんの家族は全員が一度に戦争で死なないように、生き延びるためにモザンビークとタンザニアに分かれて生活していました。そのため、Nさんのお母さんはタンザニアで生まれました。叔父さんはタンザニアで音楽家になり、その叔父さんがNさん一家の戦後の暮らしを支えてくれました。

次第に生活は落ち着き、Nさんが学校に行き始めたのは、1993年、6歳の時でした。戦争が終わって、学校は比較的すぐに再開されましたが、机や椅子が無いのは勿論、教室もなく、青空教室でした。その後、学校が竹で建設されました。

ここまでお読み頂きありがとうございます。次回は、インタビューの続きをお伝えします。

Vol.7に続く)


 

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2021年3月13日土曜日

モザンビークのお話 (Vol.5) 横田 美保

こんにちは。日増しに暖かくなり、早春の息吹を感じるこの頃です。

皆さんお変わりございませんか。

スタッフ関係

さて、今回は201210月に立ち会った武器アートの製作現場の様子をお伝えします。

その頃、私はえひめグローバルネットワーク(EGN)のモザンビーク事務所長として首都のマプトに駐在しており、前回のブログでお話したように、EGNは市民の手で平和構築を目指すTAEプロジェクト*を支援していました。

*TAEプロジェクトの詳細はひとつ前のブログをご参照ください。⇒【リンク先

このプロジェクトに魅せられた国立民族学博物館(大阪府吹田市)の依頼で、武器アーティストのフィエルさんとケスターさんが大型の武器アートを製作することになりました。その様子を国立民族学博物館の吉田憲司館長が記録するということで、私もその製作プロセスを日々見せて頂くことにしました。

作品のモチーフは、「自転車」と「家族」です。

TAEプロジェクト*のために日本の放置自転車が交換物資として活用されてきたという経緯、また平和な世の中でこそ成立する何気ない日常、平和構築のために前進し続けるというようなメッセージが込められているようです。





まず、銃を切断します。この作品を製作するために合計で100丁以上の銃が使われているそうです。まれに弾薬が込められたままであったり、暴発したりすることもあるので切断のプロセスには細心の注意が必要です。この作業の際に銃口が周囲の人に向かないようになどの注意も必要です。





作品の枠組みを作成し、そこにパーツを一つ一つ溶接していきます。

 





自転車のクランク、サドルを再現。小さいパーツを溶接するのは根気のいる作業です。















自転車の完成。作業が夜中までかかることもありました。

3週間かけて、渾身の作品が完成しました。

 

自転車のハンドルを握った父親が片足を地面につけ、今にも漕ぎ出そうとしている姿で、後部座席には母親と背負われた子どもの姿があります。そこに伴走する犬の姿もあります。

 

完成した作品は、下記のリンクからご覧になれます。日本の多くの方々にもモザンビークの悲しい戦争の歴史を知っていただき、この作品に込められた平和への想いを受け取ってもらえたらと思います。

 


国立民族学博物館所蔵:『いのちの輪だち(Cycle of Life』 2012

フィエル・ドス・サントス/クリストヴァオ・カニャヴァート(ケスター)

https://www.minpaku.ac.jp/museum/enews/146otakara


※この作品は、常設展示ではないので、是非見てみたいという方は、同博物館にお問合せ下さい。

 ここまでお読み頂きありがとうございます。次回もお楽しみに!


Vol.6に続く)

 


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2021年2月17日水曜日

モザンビークのお話 (Vol.4) 横田 美保

皆様、こんにちは。

梅が咲き始め、だんだん春の気配がしてきましたね。お元気でお過ごしでしょうか。

さて、前回、モザンビークの内戦後の武装解除、平和構築活動についてお伝えしましたが、今回は武器の平和アートへの再生についてお話します。

<モザンビークの平和アート>

回収した武器を2度と使えないようにするには、通常、溶かして鉄として再利用すると思いますが、モザンビークでは溶鉱炉の不足からそれを断念し、爆破処理する方法が取られました。そして、回収された武器のうち数パーセントは、アーティストの手で平和を訴える『武器アート』として生まれ変わっています。

『空爆が終わり、傘をたたむ人』

(フィエル・ドス・サントス作/えひめグローバルネットワーク所蔵*

 

『武器アート』の特徴は、武器を切断して使用できない状態にしてから、武器であることが視覚的に分かる形でアート作品として再生する点です。そのため、武器の1部であることが私のような素人にも分かります。


作品のモチーフはアーティストによって異なりますが、戦時中は禁じられていた音楽を奏でる様子、喜びを表現するダンス、パン焼き、読書などの日常、動物や爬虫類などの生き物、愛の象徴の薔薇、平和の象徴の鳩など多様です。

モザンビークの首都マプトにある美術館Núcleo De Arteが主な製作場所で、私がマプトに居た当時は5名ほどのアーティストが武器アートを製作していました。特に仲の良かったアーティストが、フィエルさんと、ケスターさんです。 

 

アーティストのフィエル・ドス・サントスさんと彼の作品

アーティストのクリストヴァオ・カニャヴァート(通称ケスター)さんと彼の作品


『武器アート』を製作するアーティストは、自身が子ども兵だった人、親戚・家族が敵味方として戦った悲しい過去を持っている人など、戦争の辛い記憶を抱いている人ばかりです。そのような過去は忘れてしまいたいと考えることもあり、武器を手にすることで戦争の記憶がその度に思い起こされるそうです。しかし、辛い体験があったからこそ、忌まわしい戦争を忘れないように、将来の子ども達に同じ思いをさせないように、作品を通じて平和の尊さを訴えることが使命であると感じているそうです。武器アート製作を通じて、負の感情が昇華して救われているということもあるそうです。

武器アートが世界的に有名になったのは、大英博物館で展示が行われた2002年で、2004年より『Tree of Life(生命の木)』と『Throne of Weapons(武器の玉座)』が常設展示さるようになりました。写真の転載ができないので、是非下記のリンクから作品をご覧ください。

 ◆大英博物館所蔵:『Tree of Life(生命の木)』 2002

同国が負わされた暴力の文化への勝利、兵士や政治家でなく武装していない一般市民(女性、子ども達)の勝利を象徴している。

https://britishmuseum.withgoogle.com/object/tree-of-life

◆大英博物館所蔵:『Throne of Weapons(武器の玉座)』2002

ロシア製の自動小銃AK47、東欧、ポルトガル、北朝鮮の銃などからできている玉座です。

https://britishmuseum.withgoogle.com/object/throne-of-weapons

どんな武器が作品に使用されているかの詳細の分析は以下のリンクでご覧いただけます。モザンビークでは銃を製造していないため、すべて海外から流入した武器です。 リンク:https://bit.ly/3iGnsjO

 *えひめグローバルネットワーク所蔵:武器アート作品一覧(平和教育の教材として、企画平和展の開催のためなどに貸し出しを行っています。詳細はこちら https://mozambique-art.com/

 

ここまでお読み頂きありがとうございます。

次回は、武器アート作品の製作現場についてお伝えします。

Vol.5に続く)


 


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2021年1月9日土曜日

モザンビークのお話 (Vol.3) 横田 美保

 

<モザンビークの平和構築活動>

厳しい寒さの中、冬のひだまりがことのほか暖かく感じる歳末の候、いかがお過ごしでしょうか。

さて、Vol.1でモザンビークの内戦が終わった後、199212月からの2年間、日本から自衛官が派遣され、モザンビークの治安の維持に貢献したとお話しましたが、別の角度からも日本が同国の平和構築に携わりました。

1975年から1992年まで続いた内戦中、米ソを始めとする様々な国々から流入した武器が人々の居住地域の周辺、そして民間の手に残されてしまいました。

除隊兵士や元ゲリラ部隊の兵士たちは個人的に武器を所有していたため、内戦終了後も大量の武器が個人の手に残ることとなりました。内戦中、モザンビーク国内にはAK47(ロシアが開発した軍用小銃)だけでも600万丁存在していたと言われています(正確な数は把握できていません)。大半は闇市場で流通し、モザンビークではAK47の単価が約14ドルと非常に低額であったため、隣国南アフリカ共和国の国内市場へ大量の小型武器が流入することとなりました。(南アフリカ共和国では1丁が400ドル~500ドルであったと言われています。)*

       シニャンガニーネ村を訪問した際に回収した銃。

錆びて、使えない銃ですがずっしりと重みを感じました。

 

モザンビーク政府は、内戦終結後、国内の治安の維持と、周辺国への小型武器の流出をくい止めるために幾つかの措置をとりました。その代表的な活動が、レイチェル作戦と「銃を鍬に」プログラムです。

◆レイチェル作戦(Operation Rachel

19957月から第1~第4のフェーズで展開された武器回収プロジェクトで、同年9月に押収された武器が焼却され、その模様はテレビで報道されたため、国際社会の関心も高かったと言われています。全4回の作戦に関して、全て南ア政府が資金投入しました。(出典:Vines, A.1998p.46.

◆「銃を鍬に」プログラム


武器を市民の手で回収し、生活物資と交換することで武装解除・平和構築を進める取り組みを現地NGOキリスト教評議会(CCM: Christian Council of Mozambique)が開始しました。この平和構築活動は、聖書のイザヤ書『彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない』という聖句からモザンビーク聖公会のディニス・セグラーネ(Denis S. Sengulane)司教が発案、ポルトガル語ではTAETransformação de Armas em Enxadas)プロジェクト、日本語では「銃を鍬(くわ)に」プロジェクトと呼ばれています。

CCMの年次会合の様子

武器との交換物資としては自転車や足踏みミシン、農具、建築資材(セメントやトタン屋根)等が活用されてきました。武器との交換を支援するための支援物資を日本から送った市民団体が幾つかありました。その中にNPO法人えひめグローバルネットワークがありました。愛媛県松山市で問題となっていた大量の放置自転車の一部を市から無償で譲り受け、整備してモザンビークに送り、現地で交換物資として活用してもらう平和のためのリユースの活動が始まりました。2000年に第1回目100台の自転車輸送を実現し、以降、計7回、660台の自転車をミシンや文房具などの支援物資と共に輸送しました。松山市から寄贈された放置自転車は、マレンガーネ地区の小学生の通学の足としても活用されました。

日本から贈られた自転車に乗るボンドイア村の小学生たち


 モザンビークにおいて使用できる状態の武器は、闇市場で販売すると数百ドルになることもあり(販売先や銃器によって金額はまちまち)、貧しい市民にとっては貴重な収入になりえます。また、内戦が終わったとはいえ、戦争を経験した人々にとって武器を手放すということはリスクにもなりえます。そのため、CCMは単に武器を回収するのみならず、平和教育=精神の武装解除、平和に基づいた生活の安定の啓発を並行して実施することを重視してきました。例えば、平和教育のワークショップを開催し、武器回収に協力してくれた村・コミュニティには井戸の建設や小学校の建設支援などを実施しました。

              CCMが北部州で回収した銃

       実際に戦争で使われたかと思うと置かれているだけでも恐ろしいです。


1995年から2012年までにCCMが警察、軍隊と協力して回収した武器(銃器だけでなく、地雷、手りゅう弾、ロケット弾など様々な武器を含む)は、計200万丁/個以上にのぼりました。回収された武器は、2度と使用できないよう爆破処理されました。国内にAK47だけでも600万丁存在していたことを鑑みると、レイチェル作戦と「銃を鍬に」プログラムで回収・破壊できた武器は全体の数割にとどまります。しかし、平和の構築のために市民が継続的に取り組んできたこと、その活動こそが重要なのではないかと思います。

2012104日、モザンビークの内戦が終結して20周年の平和記念日の式典に出席した際にスピーチより

‟「平和」な状態は、努力なしに維持できるものではない。絶え間ない努力があってはじめて維持できるもので、モザンビークの平和のためにはより一層の国民の尽力が必要である

 

*出典:中澤香世「第9条 モザンビーク」

https://home.hiroshima-u.ac.jp/heiwa/Pub/45/45-nakazawa.pdf

 ここまでお読み頂きありがとうございます。

次回も引き続きモザンビークの平和構築活動についてお話しますのでお楽しみに。

昨年はGBNの活動にご支援いただき誠にありがとうございました。本年もどうぞ宜しくお願いいたします。


Vol.4に続く)



 


2020年11月4日水曜日

モザンビークのお話 (Vol.2) 横田 美保

こんにちは。今回はモザンビークと日本の意外な歴史的なつながりについてお話したいと思います。

<日本とモザンビークの繋がりのはじまり>

日本とモザンビークの繋がりは、なんと16世紀に始まりました。イエズス会の宣教師が織田信長と謁見した際に従者としてつれていた黒人を「信長が、召し抱えたいと所望したために献上した」と史実に残っており、その従者がモザンビーク出身だったのではないかと言われています。信長はその黒人男性を「弥助」と名付け、後に武士の身分を与えて家臣にし、数々の戦に弥助と参加したと伝えられています。

狩野内膳の 『南蛮人渡来図』には、日本に到来した宣教師などが黒人奴隷の召使いを従えている様子が描かれています。日本で弥助に与えられた役割は宣教師らの護衛であったと推測されており、宣教の旅にお供して九州に点在したキリシタン大名の領地を訪問していたようです。


 
   『南蛮人渡来図』


信長は、弥助の容貌、特に肌の墨のような黒さにとても興味を示したと伝わっています。肌の黒さは人為的につけられたものではとの疑念を持ち、肌をこすったり引っ張ったりして見分したそうです。身体を洗うことで色が落ちるのではないかと水浴びを命じましたが、洗っても色を失うどころか、ますます黒光りして大層驚いたそうです。また、当時の日本人男性の平均身長はおそらく150cm台でしたが、弥助は180cm以上あったと伝えられています。

1582年の本能寺の変で主君信長が命を落とし、弥助は追放され、これを機に弥助の記録は途絶え、どのような生涯を送ったかは定かではありません。

弥助がモザンビーク出身ではないかとみる歴史学者がいるのは、スワヒリ語で英雄を称える歴史的な叙事詩を弥助が披露したという記録から、スワヒリ語が今も使われている現在のモザンビーク北部の出身と推測されたためのようです。

日本の象徴である「侍」の中に異国人がいたという事実は、日本人にのみならず、海外の人々にも大きなインパクトを与えました。弥助の存在は次第に注目を集めるようになり、彼のストーリーはロックリー・トーマス氏の「信長と弥助」という本になったり、コートジボワール系のフランス人作家セルジュ・ビレ氏が本を出版したり、「Yasuke」としてハリウッド映画化されることが発表されたりしています。彼のミステリアスで数奇な人生が人々を惹きつけています。

ここまでお読み頂きありがとうございます。

次回は日本とモザンビークの平和構築活動の関係についてお話しますのでお楽しみに

Vol.3に続く)

 


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