2022年12月5日月曜日

モザンビークのお話 (Vol.6) 横田 美保

こんにちは。すっかりご無沙汰してしまいましたが、お元気でお過ごしでしょうか。久しぶりにモザンビークのお話をアップしたいと思います。

さて、これまでモザンビークの内戦と平和構築のお話をしてきましたが、実際にモザンビークの内戦を経験した一般市民はどんな記憶、戦争に対する想いを持っているのか、友人にインタビューしました。その内容をお届けします。

モザンビークはポルトガルからの独立後、人々の生活は少しずつ良くなっていましたが、1975年に内戦が起こりました。モザンビークの面積は日本の約2倍、そして日本のように南北に細長い国です。そのため内戦が起こっていたとはいえ、戦場となった地域と、戦渦が届かなかった地域があります。

首都のマプトや、モザンビーク中部の州に住んでいた知人に戦争の記憶について聞いてみましたが、普通の生活が送れていたので、戦地にいた人、戦争に参加した人に話を聞いたほうが良いとアドバイスされ、北部地域出身のNさんにお話を聞きました。

Nさん(モザンビーク人・男性)の出身地は、私が6年間住んでいたモザンビーク最北部の州、カーボデルガド(Cabo Delgado)州のムエダという場所で、Nさんは1987年に生まれました。内戦は、1975年から1992年まで続いたので、Nさんの記憶に残っているのは、内戦終結前の数年間ということになります。 

Nさんは幼かったですが、1990年頃の内戦の様子を鮮明に覚えているそうです。

Nさんの戦争の記憶>

当時の内戦は、フレリモと反政府軍のレナモの戦闘が行われていたのですが、レナモは数が少なく、劣勢なためゲリラ的な攻撃を行っており、昼間は森、茂みなどに潜んでいて、深夜に村を襲いに来ました。そのため、夜中に、銃声、爆音が響きます。銃声が聞こえ始まると、家族が幼かったNさんや兄弟たちを抱えて畑、茂みに走って隠れます。そのため、夜中のパッパッパッパッという銃声や爆音がトラウマになっているそうです。

戦渦が酷くなり、住んでいた村はレナモ軍に征服され、2,000人ほどの人々が殺害されたそうです。そして家々からは食糧等の生活物資が強奪されました。幸いなことにNさんの家族は生き延びましたが、その村から逃れ、1991年に北部のムエダから同州南部の親戚が住んでいたミエジに移住しました。




<戦時の生活>

身の危険を感じると身を潜めて畑に隠れながら住んでいたため、普通の生活ができなかったそうです。多くの男性は戦場に行っていたため、女性と子どもだけが村に残され、衣食住全てが大変でした。人として生きるのに最低限、ギリギリの生活だったそうです。

ガゼラ、インパラ、トリ、象、ライオン、カバ、サル、ネコ科の動物、大きな蛇、野生の豚、ウサギ等、人々は生存のためにありとあらゆる野生動物を食し、生活のために土地を切り拓いたため、野生動物が激減しました。

キャッサバという芋、米、トウモロコシなどの主食を主に生産して自給していました。満足な資材も肥料もない畑の生産性は悪く、同じものばかり食べていたために栄養失調になる人、病気で亡くなる人が絶えなかったそうです。

この時期には医者がおらず、病院もありませんでした。コランデイロという土着の薬草等の知識のある人が処方してくれる伝統薬、薬草を飲むだけでした。年長者は身体によい薬草のことを良く知っていたそうです。加えて、水不足で、脱水症状で亡くなった人も多かったようです。

内戦時代、戦地となった場所には学校、学ぶ機会が無く、就学年齢であった人の多くは残念ながら公教育を受けずに育ちました。




<戦争の終結・戦後の記憶>

1992年に戦争が終結し、レナモ軍の関係者は捕えられて、処刑されました。村において村人(一般人)が処刑と称してガソリンでレナモの関係者を焼いた様子がNさんの記憶に強く残っているそうです。(戦後の混乱の中で起こったことで、法制度の整備後はこのような非人道的な行為は認められていません。)

Nさん家族はその年にミエジから、州都ペンバ(当時はポルトアメリア)に移り住み、ナティティという地域で暮らし始めました。ペンバは攻めるのが難しいので、戦場にはならなかったそうです。ペンバ港を中心として市場、お店、郵便局、役場等が機能していました。今ペンバは、人口数十万人の地方都市ですが、Nさんが住み始めた当時、ナティティは未開の地でした。近郊には豚、サル、蛇、ライオンなどの野生動物がいました。

カーボデルガド州と国境を接しているタンザニアには、戦時中(独立戦争中、内戦中)、モザンビークからタンザニアに多くの人が逃がれました。Nさんの家族は全員が一度に戦争で死なないように、生き延びるためにモザンビークとタンザニアに分かれて生活していました。そのため、Nさんのお母さんはタンザニアで生まれました。叔父さんはタンザニアで音楽家になり、その叔父さんがNさん一家の戦後の暮らしを支えてくれました。

次第に生活は落ち着き、Nさんが学校に行き始めたのは、1993年、6歳の時でした。戦争が終わって、学校は比較的すぐに再開されましたが、机や椅子が無いのは勿論、教室もなく、青空教室でした。その後、学校が竹で建設されました。

ここまでお読み頂きありがとうございます。次回は、インタビューの続きをお伝えします。

Vol.7に続く)


 

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