こんにちは。今回はモザンビークと日本の意外な歴史的なつながりについてお話したいと思います。
<日本とモザンビークの繋がりのはじまり>
日本とモザンビークの繋がりは、なんと16世紀に始まりました。イエズス会の宣教師が織田信長と謁見した際に従者としてつれていた黒人を「信長が、召し抱えたいと所望したために献上した」と史実に残っており、その従者がモザンビーク出身だったのではないかと言われています。信長はその黒人男性を「弥助」と名付け、後に武士の身分を与えて家臣にし、数々の戦に弥助と参加したと伝えられています。
狩野内膳の 『南蛮人渡来図』には、日本に到来した宣教師などが黒人奴隷の召使いを従えている様子が描かれています。日本で弥助に与えられた役割は宣教師らの護衛であったと推測されており、宣教の旅にお供して九州に点在したキリシタン大名の領地を訪問していたようです。
信長は、弥助の容貌、特に肌の墨のような黒さにとても興味を示したと伝わっています。肌の黒さは人為的につけられたものではとの疑念を持ち、肌をこすったり引っ張ったりして見分したそうです。身体を洗うことで色が落ちるのではないかと水浴びを命じましたが、洗っても色を失うどころか、ますます黒光りして大層驚いたそうです。また、当時の日本人男性の平均身長はおそらく150cm台でしたが、弥助は180cm以上あったと伝えられています。
1582年の本能寺の変で主君信長が命を落とし、弥助は追放され、これを機に弥助の記録は途絶え、どのような生涯を送ったかは定かではありません。
弥助がモザンビーク出身ではないかとみる歴史学者がいるのは、スワヒリ語で英雄を称える歴史的な叙事詩を弥助が披露したという記録から、スワヒリ語が今も使われている現在のモザンビーク北部の出身と推測されたためのようです。
日本の象徴である「侍」の中に異国人がいたという事実は、日本人にのみならず、海外の人々にも大きなインパクトを与えました。弥助の存在は次第に注目を集めるようになり、彼のストーリーはロックリー・トーマス氏の「信長と弥助」という本になったり、コートジボワール系のフランス人作家セルジュ・ビレ氏が本を出版したり、「Yasuke」としてハリウッド映画化されることが発表されたりしています。彼のミステリアスで数奇な人生が人々を惹きつけています。
ここまでお読み頂きありがとうございます。
次回は日本とモザンビークの平和構築活動の関係についてお話しますのでお楽しみに!
(Vol.3に続く)
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